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セントラルにある(高和皮鞋公司)はカスタムメードの革靴専門店。同店のオーナ劉洪義さんはこの道六十年という香港を代表する革靴職人だ。

劉さんは日本人ともゆかりがあり、その技の歴史は一九二〇年代の上海市にさかのぼる。二〇年生まれの劉さんは十八歳のとき故郷の南通市(江蘇省)で水害に遭い上海にいた大おじを頼って上京。当時この大おじは日本人が経営する店で靴職人としていたため、劉さんも彼の下で靴作りを学んだ。日本租界があった時代、ブーツや革靴を作る同店には注文が多く大繁盛。当時、中国人の劉さんたちは日系企業に勤めていることを隱していたが、日本の職人気質と綿密な技に触れた日々は忘れ難い思い出だという。

上海で日本人のボスはわしを(祺狼)と呼んだ。 うちの顧客はもちろんみなサパニン(上海語で日本人という意味)。三十―四年代に上海にいた日本人なら、わしのことを覚えていると思うんだが。

上海語で語る劉さんの呼び名は標準中国語の(次郎ツーラン)ではありませんかと聞くと、(その名前は日本人らしいなあ)と興味深げに身を乗り出した。

その劉さんが見せたいものがあると言って取り出したのは、製図用のコンパスと(正国光)という銘柄入りの小刀だった。 どちらも上海時代、日本人の師匠から受け継いだもの。日本製の道具は切れ味が良く、手になじむのだそうだ。

(コ:ン:パ:ス:という言葉は師匠から教わった。作業はすべて日本語だったから、今でも聞けばわかるさ、いや、もう忘れてしまったかな。 今はその後開発された中国製は安く手に入るし)と付け加えだ。

香港に移ってきたのは三十歳のとき。大おじが湾仔で開いた靴店にそのまま就職した。(高和)という店は中国語としての意味はなく、二人の師匠だった日本人の名字から取ったという。

香港で身を固めた劉さんはその後、亡くなった大おじに代わり二代目として店を引き継ぐ。そして香港の歴代総督をはじめ董建華行政長官や李嘉誠氏を顧客に持つ有名店として名を馳せる。

劉さんに(引退はいつ?)と聞くと、靴作りはとにかく苦労が多い。十何時間も工場で働きつめになる。でもほかには職人はいないんだ。わしが作らにゃいかんのだよ、との返事。傍らで息子の俊華さんが(父はこの仕事が好きなんです。やめたくないんです)とそっと耳打ちした。劉さんが三代目に仕事を譲るのはまだ先のことになりしそうだ。

 
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